2011年12月13日火曜日

書道教室に参加しよう

月2回の書道教室はいつも楽しく行われています。皆何十枚も書いた中から何を出そうかといつも悩んでいることと思いますが実はすばらしい作品を観る目がなく捨てていることもたくさんあります。プロでさえ観れないのをこの教室では中村先生が惜しげもなくその方法を披露してくれます。芸術は観る目がなければいつまでも進歩しません。この貴重な教室に恥をかこうともドンドン参加しましょう。

2011年12月12日月曜日

永和全国展最終日に打ち上げ

12月3日展覧会終了後12名で打ち上げを行いました。作品は見ているがどんな人かと興味津々で、中村先生の本音なんかも聞けて楽しい一時でした。年に一度は反省会も兼ねてワイワイやりたいものです。

2011年6月30日木曜日

2011年5月2日月曜日

中村山雨 書道教室

漢字、 仮名、現代文、篆刻等書の全ての分野を初心者から公募展出品者の指導をします。
第2火曜日 18:00~20:00 第4土曜日13:00~15:00
ところ 新天町 復古堂
・希望される方は
092ー933ー2430 中村まで

2011年4月21日木曜日

義之創刊五周年雑感 中村山雨

五年前に、古典無視の手本主義現書壇に一矢を報いる為に、王義之の書法を主に研究し創作することを目標にこの義之は誕生しました。残念ながらこの所期の目的は十分に達成できませんでした。
しかしながら、同人諸氏のこの成長は大いに自慢できると思います。創刊時同人に加えてこの5年で、田中悦子、岩本岳山、善明慶子、福井克明、山村克明、山村佳代子、山村保子、高原嘉浩、平田貴大、半田格南、京極常徳の十人の同人が誕生したことは大変うれしいことでした。そして、同人諸氏が東京書作展を舞台に大いに活躍されているのもうれしいことです。
悲しいことに菊野芝彩、渡辺芝閑両同人が逝去されました。
最後に厳しいことを申しますが、一部の方々を除いてまだまだ勉強不足だということです。手本なしで古典の臨書を通して創作を目指しているのですから、相当な古典の臨書が要求されます。しっかり古典と格闘してほしいものです。義之の方針で一歩一歩進んで行けば必ず自分の書を創れると自負しています。

臨書について 大坪籃海

書の表現に必要なテクニックを学ぶ、ということに関しては、中国の書は、誰の場合でもそれだけのことを示していて学ぶに事欠かない。なかでも王鐸は近代書とは何かを教えてくれる重要な作家の一人といえる。
ただし、原理的な意味からいえば、いうまでもなく王義之である。書の表現に必要なテクニックを学ぶ、という学習方法を古来より「古典の臨書」と言っている。書の場合、この方法以外に何らの方法はない。
そこで、臨書という学習は、己のために行う学習であって、人に見せたり、人のものと競ったりするものではない。臨書という学習は、己自信のために行うものであるから、アトリエなり自分の書斎のなかで、人知れず行うものである。
初心の間、一時的に指導してもらうということは必要であるが、ある時期になれば、人に指導してもらうという方法は決していいことではない。何故なら、原本が目の前にあるわけだから、自分がかいたものと、その原本との違いを、自分のめで比較検討すればよい。自分のめで、原本と比較検討して、その相違するところを、自分のめで発見する、その時、その人のめは更に、そのふかくを、具体的に知り、分かる、ことになる。そういう学習を積み重ね、少しずつ少しずつ行っていってそこではじめて本当の自分のめが見えるようになり分かるようになっていくのである。

2011年2月24日木曜日

「義之」28号 中村山雨

福岡市美術館で某展を見たが、千点近く出品されているというのに、これといった光る作品を見つけ出すことができなくて残念であった。光る作品というのはただ単に上手いだけでは駄目で、自分独自のものでなくてはならない。いつもいっていることであるが、下手でもいいから、手本で書くのではなく、自分の眼で作品を創ろうという意気込みが必要である。初めから創作できないのは当たり前である。初めは古典から字を借りるしか方法はない。古典から借りたものをどう配置するかが勉強である。その字の配置というのも、王義之の蘭亭序がしっかり教えてくれる。

2011年2月19日土曜日

書の条里 大坪籃海

音楽は、楽器のそれぞれの音を組み合わせ、組み立てていく作業であり、耳で聞くことによって感じようとする。
絵画は、抽象、具象を問わず、ものの「形と色」の組み合わせ、組み立ての作業であり、目で見ることによって感じようとする。文学は、ものごとの状態、推移を。語彙、熟語によって組み合わせ、組み立てて、目で読むことによってかんじようとする。いずれも組み合わせ、組み立てる際に、なにがしかの効果的な方法(作法、手段)というものがある。それは、音楽であるための、絵画でありうるための、文学でありうるための最大公約数的、成立の条件である。書も又、軌を同じくする。即ち、書は文字を素材にする。文字は人間の意思表示のための[記号]であり、点と線からなる「抽象形」である。文字が、人間の意思表示の記号であるところから、そこに熟語や、文章、詩歌を縦に、又、横に書き連ね、書き継がれていく文字の集合体をなす。これを「行」という。その「行」の集合体が、書の表現のすべてである。故に、読めるという約束された文字記号の形態を失うことなく、一字をなす「点と線」による抽象的記号としての「文字の構成」を、どう組み合わせ組み立てるか、更に、熟語や、文章、詩歌を縦に、又、横に連ねることによっておこる「行と行」とを、作品としての全体構成として、どのように組み合わせ組み立てるか、そそて、それが有機的に作用し、何を美しいと思い、何に感動するかは、そぬ作者が、何をつくろうとし、どうあらねばならないかを指す。作者の意図が美に対してどう感応するか、その感じる方向にそれなりの展開を示す。故に、「人生の在り方が、」、効果的に展開するかによって、書の美は、成り立ち、生み出されることが許される。その各構成の在り方、構成に際しての方法こそが、即ち、書の美のすべてであり、そしてそれが、作品制作に入る以前の基礎をなす書の原則というべきもので、それがいわゆる書の“造形原理”としての成立を意味するものであって、従って何人といえども、書の基本技として修熟し、修得し終えていなければならない「基本原理」である、とする。ということは、書は、飽くまで、物質形示上の「形」の表現であり、それ以外のなにものでもないからである。このことから考え推していくとき、俗にいう、「作者の心」を表す、という表現作業は荒唐無稽のことであり、ありえないものとする。作品の、作者の「心」というものは、瞬時の間においての自然発生的、発露的現象をいうのであって、作者が、その制作事において、殊更に、意識し、意図すべきことではない。作品の作者の「心」は、作者が、どう生きるかということにすべてがかかっていることであっていて、それが無意識に発露し、作用するもののように思う。芸術は、その人が美しいと感じる、その感じるところに依りておこる。美しいと感じるその感じ方が、その人の芸を創り出す。多くの場合、何を美しいと思い、何に感動するかは、その作者が、何をつくろうとし、どうあらなければならないかを指す。作者の意図が美に対してどう感応するか、その感じる方向にそれなりの展開を示す。故に「人生の在り方」が、無視できない終極の作用を、そこに転ぜしめるが故に、だからこそ、作者が、生涯をかけて、どう生きるかの、苦闘を強いられるのであって、そこから「作者は人間である」との敬語がうまれたのであろう。1984、1、2

2011年2月17日木曜日

大坪籃海とその流れ展

とき 2011、3、1~6 am10~pm8 最終日はpm5まで
ところ 福岡 新天町FAVO 復古堂ギャラリー tel 092-751-7961
主催 中村 山雨
出品者 故 大坪藍海 大野利糸 岩瀬桃谷 江島曜一 河野芝遊 桑原公博 善明慶子 高原嘉浩 中村山雨 半田翆晴 松崎修善
平田貴大 前田哲秀 賛助出品 博多人形師 多田明正