2011年4月21日木曜日

義之創刊五周年雑感 中村山雨

五年前に、古典無視の手本主義現書壇に一矢を報いる為に、王義之の書法を主に研究し創作することを目標にこの義之は誕生しました。残念ながらこの所期の目的は十分に達成できませんでした。
しかしながら、同人諸氏のこの成長は大いに自慢できると思います。創刊時同人に加えてこの5年で、田中悦子、岩本岳山、善明慶子、福井克明、山村克明、山村佳代子、山村保子、高原嘉浩、平田貴大、半田格南、京極常徳の十人の同人が誕生したことは大変うれしいことでした。そして、同人諸氏が東京書作展を舞台に大いに活躍されているのもうれしいことです。
悲しいことに菊野芝彩、渡辺芝閑両同人が逝去されました。
最後に厳しいことを申しますが、一部の方々を除いてまだまだ勉強不足だということです。手本なしで古典の臨書を通して創作を目指しているのですから、相当な古典の臨書が要求されます。しっかり古典と格闘してほしいものです。義之の方針で一歩一歩進んで行けば必ず自分の書を創れると自負しています。

臨書について 大坪籃海

書の表現に必要なテクニックを学ぶ、ということに関しては、中国の書は、誰の場合でもそれだけのことを示していて学ぶに事欠かない。なかでも王鐸は近代書とは何かを教えてくれる重要な作家の一人といえる。
ただし、原理的な意味からいえば、いうまでもなく王義之である。書の表現に必要なテクニックを学ぶ、という学習方法を古来より「古典の臨書」と言っている。書の場合、この方法以外に何らの方法はない。
そこで、臨書という学習は、己のために行う学習であって、人に見せたり、人のものと競ったりするものではない。臨書という学習は、己自信のために行うものであるから、アトリエなり自分の書斎のなかで、人知れず行うものである。
初心の間、一時的に指導してもらうということは必要であるが、ある時期になれば、人に指導してもらうという方法は決していいことではない。何故なら、原本が目の前にあるわけだから、自分がかいたものと、その原本との違いを、自分のめで比較検討すればよい。自分のめで、原本と比較検討して、その相違するところを、自分のめで発見する、その時、その人のめは更に、そのふかくを、具体的に知り、分かる、ことになる。そういう学習を積み重ね、少しずつ少しずつ行っていってそこではじめて本当の自分のめが見えるようになり分かるようになっていくのである。