2011年2月19日土曜日

書の条里 大坪籃海

音楽は、楽器のそれぞれの音を組み合わせ、組み立てていく作業であり、耳で聞くことによって感じようとする。
絵画は、抽象、具象を問わず、ものの「形と色」の組み合わせ、組み立ての作業であり、目で見ることによって感じようとする。文学は、ものごとの状態、推移を。語彙、熟語によって組み合わせ、組み立てて、目で読むことによってかんじようとする。いずれも組み合わせ、組み立てる際に、なにがしかの効果的な方法(作法、手段)というものがある。それは、音楽であるための、絵画でありうるための、文学でありうるための最大公約数的、成立の条件である。書も又、軌を同じくする。即ち、書は文字を素材にする。文字は人間の意思表示のための[記号]であり、点と線からなる「抽象形」である。文字が、人間の意思表示の記号であるところから、そこに熟語や、文章、詩歌を縦に、又、横に書き連ね、書き継がれていく文字の集合体をなす。これを「行」という。その「行」の集合体が、書の表現のすべてである。故に、読めるという約束された文字記号の形態を失うことなく、一字をなす「点と線」による抽象的記号としての「文字の構成」を、どう組み合わせ組み立てるか、更に、熟語や、文章、詩歌を縦に、又、横に連ねることによっておこる「行と行」とを、作品としての全体構成として、どのように組み合わせ組み立てるか、そそて、それが有機的に作用し、何を美しいと思い、何に感動するかは、そぬ作者が、何をつくろうとし、どうあらねばならないかを指す。作者の意図が美に対してどう感応するか、その感じる方向にそれなりの展開を示す。故に、「人生の在り方が、」、効果的に展開するかによって、書の美は、成り立ち、生み出されることが許される。その各構成の在り方、構成に際しての方法こそが、即ち、書の美のすべてであり、そしてそれが、作品制作に入る以前の基礎をなす書の原則というべきもので、それがいわゆる書の“造形原理”としての成立を意味するものであって、従って何人といえども、書の基本技として修熟し、修得し終えていなければならない「基本原理」である、とする。ということは、書は、飽くまで、物質形示上の「形」の表現であり、それ以外のなにものでもないからである。このことから考え推していくとき、俗にいう、「作者の心」を表す、という表現作業は荒唐無稽のことであり、ありえないものとする。作品の、作者の「心」というものは、瞬時の間においての自然発生的、発露的現象をいうのであって、作者が、その制作事において、殊更に、意識し、意図すべきことではない。作品の作者の「心」は、作者が、どう生きるかということにすべてがかかっていることであっていて、それが無意識に発露し、作用するもののように思う。芸術は、その人が美しいと感じる、その感じるところに依りておこる。美しいと感じるその感じ方が、その人の芸を創り出す。多くの場合、何を美しいと思い、何に感動するかは、その作者が、何をつくろうとし、どうあらなければならないかを指す。作者の意図が美に対してどう感応するか、その感じる方向にそれなりの展開を示す。故に「人生の在り方」が、無視できない終極の作用を、そこに転ぜしめるが故に、だからこそ、作者が、生涯をかけて、どう生きるかの、苦闘を強いられるのであって、そこから「作者は人間である」との敬語がうまれたのであろう。1984、1、2

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